◆さようなら、親分。
20年ほど前の某月某日、友人がある男性を連れてきた。
カウンタ-にどっかと陣取ったその男は黒ダブルのス-ツに大きめの眼鏡、
黒いソフト帽。ぎろりとした、場を威圧するような眼つきは、まぎれもなくあの
名脇役、そう、2009年3月31日に逝った金田龍之介さんその人だった。
友人はおでん屋で金田さんと偶然隣り合わせになって話が合い、私の店
に連れてきたのだという。
ぎろり眼がひたと私を射抜いたその1秒後、私は軽く頭を下げてゆっくりゆ
っくり、迎えの言葉を発した。
「親分、お待ちして、おりました」
名だたる名優を前にして、ありきたりな挨拶はつまらない。咄嗟に出た台
詞だったが、ぎろり眼氏は何と、「おぅ、待たせたな」 と応じたのだ。
何年か経ったある日、これまたぎろり眼のちょっとこわもてしそうな男が訪
ねてきた。
「あんたがオ-ナ-か?」
「そうですけど」
女であることが不服らしい。
男は内ポケットから葉書を取り出した。
差出人は金田龍之介。「金沢に俺の子分がいるから、贔屓にしてやってく
れ」といった文面だ。これじゃ誰だって子分は男だと思うだろう。 男は某ゼネ
コンの北陸責任者として金沢に赴任してきたばかりで、金田さんとは長年の
付き合いだという。
彼、ハマちゃんと私はすぐに打ち解けあった。
2001年夏、念願かなって私は金田さんと仕事をすることができた。
『金田龍之介が拓く鏡花の世界~ドラマリ-ディング高野聖』。
会場は金沢市竪町商店街にある、たてまち劇場。当時、同商店街「マムの
会」会長だった山岸淑子さんの協力で実現した。(商店街が運営する劇場は
珍しく、そのユニ-クな取り組みは全国的知名度を得ていたが、今はもうなく
寂しい限りだ)
紋付袴で舞台に臨んだ金田さんは客席に向かって一礼し、粛然とした面持
ちで前口上を述べはじめた。
「泉鏡花先生の生誕の地で演じさせたいただくのは、よその地と違い、役者
として震えるような無上の喜びを感じております。鏡花先生の墓前に奉げる気
持ちで一生懸命務めさせていただきます」
世に役者の数は多いが、このように切々たる仰望の念を聞いたことがない。
暗い客席から、居ずまいを正した観客の呼吸がさざ波のように伝わってきた。
親分、ありがとう。そして、さようなら。
鏡花先生と今ごろは会えていますよね。